志統館

志統館の武術は、空手、ルア、そして合気道、柔術、柔道などが全て和合された原点回帰された古武術です。

20。武士道での自由とは

武士道での自由とは

 

最近多くの人々から質問を受けることは、人々の多様性に関する主張に困惑を感じることや、その場合の接し方に困っているという事についてです。

 

人々が「違い」や多様性を保ちつつ、自由で幸福に栄えることは素晴らしいことです。しかしこれに伴う個人の主張が激しくなれば、お互いの容認ができなくなり共存できない結果が生まれてしまいます。それはさらに強い個人の権利の主張と言う形になり、“周りの人々が変わる事”を強要する様なことは、健全な社会の進む道ではない事を私たちは今日目の当たりにしています。

 

世界に於いて仕方ないにしても、特に日本に於いては伝統的に昔からあった違いや多様性がなぜ今になって社会問題になり、人々の和合を阻んでしまうことの理由として、全ての主張が西洋型の自由思想に基づいているからではないでしょうか。

 

西洋型の思想は基本的に二元論と言う思想に基づき、目に見える世界(形而下)を重視し、もの事を二択で選択する観念に基づき自分と相手を分けて考えた上で、自分という個人を第一に顧みます。日本に於いては戦後民主主義という形でこの西洋型の二元論による自由思想が根付いていますので、日本は知らずの内に西洋から来た自由思想に基づいていると言うことを多くの日本の人は考えもしないことだと思います。

 

二元論の思想で自分と相手を二択で分けることで自分対相手となることから、相手を考慮することが難しくなりますが、最近ではこの様な人が増えているのは周知の事です。欧米社会でも現代人のリスペクトの欠落が問題にされますが、この二元論の思想の上で和合に基づくリスペクトは難しいのです。その上で多様性や個人の主張を叫んでもそこには結局和合はなくなり、無理矢理にルールや法律で規制するというバラバラの思想が統合された形だけの総合社会ができてくるのです。その結果、大元で規制される管理社会になっていきますが、結局のところこの欧米型の自由思想では人々は本当の意味の自由を失う事になるでしょう。

 

 

日本の根源的な精神である武士道による自由とは陰と陽など目に見えない場(形而上)の空気を知り、陰に属する奥の間(プライベート)と陽に属する公の場を分けつつも、それが一つで和されている事を重視する一元論の上にあります。自分ではなく他人や全体の和を考えて自由を、尊敬、謹み、礼儀を作法と言う「型」の上で表現することです。

 

日本思想の根源の一つである武士道では、尊敬、礼儀、慎みを作法という型で体現し、武術としての体術の型を実戦で多少崩して使用します。これと同じように、実際の社会の中では基本的な作法を大切にしつつ、場に応じて多少崩して自分を保ちつつ常に皆と和合することです。これは「親しき中にも礼儀あり」、「わび・さび」などの日本流の哲学にも通じます。作法や礼儀などの型を知らないと自分の元の立ち位置や形がないことから、崩し過ぎて他人に迷惑を被らせますが、この基本を知っていると自動的に他人への敬意が現れます。

 

つまり本来、日本人にとって自由は和合を可能にする一元論を表す型(形・かたち)をもって体現するものなのです。日本は古来からこの様な根源思想に基づくことで、色とりどりのあらゆる多様性が上手く溶け込んだ社会が実現していました。なので、日本の文化人も自由と権利を語るなら独自の文化と精神性を見直す事で、和合された自由と共存が結果として出てくる事を感じられるでしょう。

 

これからの時代に自由を追求するなら、日本人は自分たち独自の武士道による自由を見直し、自発的に機能する皆が一つになった幸せの社会を創作していく事が重要です。そして武士道型の自由思想はワンネスを呼び起こすことで、今の混乱した世界にも恩恵を与えるのではないでしょうか。